囚われるなということにも囚われるなの構造について

囚われるなということにも囚われるなの構造について

昨年、「絶対的なものは認識できない。しかし認識したと思うことはできる」との気付きがあり、囚われるなということにも囚われるなの構造を説明します。しかし、この内容もある視点であるので絶対的ではないとの前提ですが、参考になるかもしれませんのでどうぞ。

全体は全体として認識できない。断面しか認識できない。なぜならば全体は比べることができないからである。しかし擬似的に全体を認識したと「思うこと」はできる。思うという現象は背景があるから起こるものだから。現れたものは断面となる。現れたということは現れた以外に背景があるから認識している。究極的な現実は認識できない。全体を全体としては認識できない。

呼吸と呼吸の隙間見る。思考から思考に移る時瞬間を見る。流れるがままに見つめ、シフトする瞬間を見る。しかし瞬間をを見たと「思うこと」はできる。しかし、そして転換点は瞬間であるので、その瞬間に自分がなくなる。瞬間は時空が無い。それを垣間見たと「思うこと」はできるが認識に背景ができるためにその瞬間にそれは擬似的なものになる。これも断面、擬似的全体。思考から思考にシフトする瞬間も見る。しかしこれだと思った瞬間に擬似的なものになる。正確に言えば現れたものは擬似的なもの断面となる。この世は断面しか認識できない。背景がなければ認識できない。これだと思考した瞬間に分けてしまう。この世は断面しか認識できない。だから究極的な現実は、「それ」とか、「あれ」とかいう表現となる。それでも「ない」、あれでも「ない」という矛盾した表現になる。それでも「あり」あれでも「ある」という矛盾した表現にならざるを得ない。崇高な体験をした。ビジョンを見たという人も、通常の生活の中での味わいも苦しみも、喜びも同列に現れたということは、それ以外のものが背景になる。だから、断面・部分・幻想となる。

分かったということは、分かった以外のものが背景となる。覚醒したと「思う」ことは、それ以外のものが背景となる。幸せということは、不幸せの状況とのギャップで認識する。全体のなかに枠を作る。絶対的なものは比べるものがないために、言葉上はあってもこの世界では認識できない。この世は限定する世界。だから、現実的だと思うことは断面、部分、幻想である。

これがあらゆることは幻想であるの意味。これが囚われるなの構造。この世界がギャップで認識する世界であることが分かれば見る、体験する、味わうということは、ある視点を作るということ視点が変わればいろいろなものに変わる。本当の姿は認識できない。
全て視点によってしか認識できない。はっきりした認識があれば、ハッキリしたものを体験しぼんやりした認識からは、ぼんやりしたものを体験する。強烈な自己をつくれば、ジャンプする土台ができ、強烈な自己を超えたと「思う」体験ができる。この世界は断面で認識するのでそれを組み合わせる創造行為ができる世界であるということ。究極的な世界は、比べられないので、善悪も優劣もない。

しかしこの世界はギャップで認識する世界であるため自己の位置を確立するために、自分にとって何が善か悪か決める。自分にとって何が優劣かを決めるそうすることにより自分の位置を確立する世界。この世は囚われる世界。これが囚われるなということにも囚われるなというものの構造。体験したということは無意識だろうが意識的だろうがある視点を選択しているということ。このことから、囚われるなということと、囚われるなということにも囚われるなという言葉の意味が分かってくる。幻想に巻き込まれ絶対視し、その反対のものを体験することも、俯瞰して幻想を見つめることも。つまり断面とは幻想・現象・道具、この世にあると「思う」全てのもの。この幻想という道具を使って何を体験するのかということ。